戦後の沿革

日比谷高校の合格発表

 

戦後となった1947年、当時の菊地龍道校長は新制高校の教科課程について生徒自治委員会からも提案を集めて、1950年には一コマを百分授業に設定し、生徒がクラス担任を選ぶ「旗立て方式」という学年別ルーム制を確立しました。

 

こうした効果もあって、その後は近隣にある麹町中学校や一橋中学校等に日比谷高校志願の越境通学者が全国から集まり、過熱化する受験対策と共に東大をはじめとする名門大学への登竜門として位置づけられるようになりました。

 

1965年に入ると、戦後民主主義の時代風潮や学園紛争の影響もあって、進学指導を中止する「小尾通達」が出され、補習科の廃止や進学指導を中止する動きなど教育内容面で大きな変化が起こり、1967年には従来の学区合同選抜制度を廃止して学校群制度が導入され、三田高校、九段高校と3校群を形成しました。

 

これで受験者が限られるようになり、都立諸校の平準化と国私立難関校への流出という志願者層の変化があって、東大合格者数トップの座も失なってしまいました。その後は具体的な進学実績向上策があまり無く、1990年代後半以降までは難関国立大学の合格実績は低迷が続いたのです。

 

しかし2001年から改革の流れが起こり、45分×7コマ(単位)授業、教員公募制の導入、詳細なシラバスの作成といった改革が実施されるようになり、、2001年に東京都から進学指導重点校の指定を受けた点や、2003年の都立高校の学区制撤廃で全都から生徒を集められるようになったこともあって、2005年は東大合格者数が14名、早慶への現役合格者数では都立高校では最多となる実績となり、東大については2007年28名、2010年には37名と着実に増加しています。